
“昭和の三筆”の一人で文化功労者の偉大な書家、手島右卿(てしまゆうけい)氏を父に持つ、岡野たみ子さん。ご自身も書家として活動しつつ、会社員のご主人とともに幼少期から、岡野選手のサッカー人生を全面的にサポートしてきました。スポーツを通じて育んだ熱い絆、親ならではの視点と深い愛情で関わり続けた子育ての日々をお話していただきました。
2008/05/23
▲お母さんとパーティーに出席。この頃はまだあどけない印象の岡野選手
中学2年の進路指導のときに、いきなり「ブラジルにサッカー留学したい」と言いだしたんです。
その頃、松江日大高校(現:立正大学淞南高等学校)の理事長先生とお話する機会があって。そこは全国から生徒が集まってくるほどの素晴らしい校風で、ブラジルの高校とも提携を結んでいたんです。
寮生活に慣れてから姉妹校に紹介すると言っていただいたので、雅行に、「層の厚い東京よりも、ここで強くなったら高校サッカーの全国大会に出られるかもよ」と言ったら、話に乗ったんですねぇ。
▲親元を遠く離れて島根県松江市にある高校で寮生活を始める
ところが、いざ行ってみると、チームは余りにも弱くて(苦笑)。
一年生なのに監督といっしょに、各地をまわって選手を集めては、だんだん強くなっていったんです。
その責任で高校3年間、自分がブラジルに行くことなんて忘れてしまったと思います。
▲大学2年生のときにJリーグが開幕。プロの道も選択肢に・・・
それでも、留学の夢はずっと持っていました。
大学4年で休学しようかと思いはじめた矢先に、レッズから入団の話をいただき、結局行かずじまいで終わったんですけれどね。
大学は準付属校だった日大サッカー部をあたったんですが、特待生でスポーツ推薦しか取らないというの。しょうがないから一般で受験して、何とか入学したのちにサッカー部へ入れてもらったんです。
また、その年にコーチが変わって、年功序列を排した実力主義にしてくれたので、1年生の秋には思いがけずレギュラーに選んでいただけました。
▲日大サッカー部のユニフォーム姿で両親と。この頃にアルゼンチンの選手、クラウディオ・カニーヒアに憧れてプレースタイルを変え髪型も長髪に
大学2年生のときに、Jリーグが開幕して、レッズのスカウトの目にとまるようになったと聞きました。
3年生の12月上旬、天皇杯でのプレー(※)が注目を集めて、「すぐにでも来ないか」って誘われたんですよ。本人はこのタイミングでJリーグに入れるなんて夢にも思っていなかったし、うれしくて、二つ返事でOKしちゃった。
でも、大学側は2年から特待生にもなったので責任上辞めさせないというんです。本当に大もめにもめました。
(※)当時、大学史上最強と言われた藤田俊哉選手、大岩剛選手らを擁する筑波大相手に
岡野選手は“五人抜きでゴール”というスーパープレーを見せつけ、2得点の大活躍!
岡野雅行さん