
“昭和の三筆”の一人で文化功労者の偉大な書家、手島右卿(てしまゆうけい)氏を父に持つ、岡野たみ子さん。ご自身も書家として活動しつつ、会社員のご主人とともに幼少期から、岡野選手のサッカー人生を全面的にサポートしてきました。スポーツを通じて育んだ熱い絆、親ならではの視点と深い愛情で関わり続けた子育ての日々をお話していただきました。
2008/05/02
▲小学校入学前に初めてサッカーに触れる。祖父宅の庭でもひたすらボールを蹴り続けていた岡野選手
市の『駒林サッカークラブ』に入ったのは、小学校入学の2、3カ月前。
小学校入学の2、3カ月前。半年前にできたばかりのクラブで、近所の方から「お友達がたくさんできるから入れたら?」と誘われたのがきっかけです。それまでサッカーをやったこともなかったのに、入部テストに行ったら、本人もコーチも気に入ったみたいでした。
それまで、ときどき趣味でサッカーをしていた主人なんて、免許をとってチームのコーチになっちゃいました。
▲クラブではキャプテンを務める。神奈川県選抜サッカー大会で横浜選抜に選ばれ、優勝を果たした
入部してからの小学校生活はもうサッカーだけ! 毎日学校から帰ると、ポンとかばんを置いて、必ずグラウンドへ行くんです。チームの子は毎日サッカーにあけくれ、兄弟よりも仲がいいくらい。
チームで規律やあいさつなどを教えてくださるから、家ではその辺のしつけは特にしませんでした。
当時、休日には試合があって、私たち親もつきそいで行くので、家族みんなが忙しかった。横浜市では優勝、神奈川県内でもいつもいいところまでいっていましたね。
ポジションは最初から、ずっとフォワードです。主人も私もリレーの選手で、私は幅跳びでは区の大会にも出ていたから、足の速さは親譲りかもしれませんね。
▲右側のマイクを持っているのが岡野選手。将来はお笑いの道に入るかも、と親が思うほど芸達者だったとか
ところが、中学生になると残念ながら、監督にも恵まれず、チームがあまり強くなくなっちゃったんです。
雅行は他の子よりも背が伸びるのが遅かったし体も細かったんです。でも、サッカーは好きだから続けていましたね。
また、その一方で勉強はあまり好きではなかったですね。あるとき、見るに見かねて家庭教師の先生をお願いしたら、「のびのびとして個性のあるお子さんだから勉強でつぶしたくない、もったいないですよ」とおっしゃるので、勉強はあきらめました(笑)。
▲今と違って穏やか(?)だった中学生時代。サッカーではのび悩んだが、毎日早朝から放課後までと土日も練習を続けた
学校では、おっとり穏やかなキャラクターで、ケンカして先生に呼び出されたとか、まったくないの。反対に、「みんなを笑わせて上手にケンカの仲裁をしている」と先生から言われるほどでした。明るくておもしろいんですよ。
さい頃、私の父がよく開いていたパーティーでも、マイクを持ってみんなの前で歌ったり、志村けんの物まねをするのが得意でしたね。小さい頃からずっと、元気で動き回っていたけど、やんちゃではないしいたずらもしなかったので、“野人”のニックネームは風貌だけだと思いますね。
でも、Jリーガーになって気性が激しくなったから、今ではすっかり“野人”となったかもしれないですね(笑)。
岡野雅行さん