
“昭和の三筆”の一人で文化功労者の偉大な書家、手島右卿(てしまゆうけい)氏を父に持つ、岡野たみ子さん。ご自身も書家として活動しつつ、会社員のご主人とともに幼少期から、岡野選手のサッカー人生を全面的にサポートしてきました。スポーツを通じて育んだ熱い絆、親ならではの視点と深い愛情で関わり続けた子育ての日々をお話していただきました。
2008/06/13
▲「ジョホールバルの歓喜」栄光のゴールを決めた直後。もみくちゃにされている14番が岡野選手
当時、仕事でちょうどオランダへ赴任しなければならない主人は、本人の選択を一番に尊重して「うちは勉強にも学歴にもこだわらないから」と、大学を中退して入団することを支持したんです。
でも、私と息子が、いくら大学側と交渉しても「中退は人生を棒にふることになるし、Jリーグで通じるわけがない」と説得されました。
ですが、Jリーグの選手登録期限もせまってきて、こちらも必死に「主人は『向こうで待っているから、4年後のワールドカップの開催地、フランスで会おう!』と言ってオランダへ行きました」と訴えたんです。
▲本邦初公開!ゴールを決めホテルに戻って祝杯♪右手前が岡野選手のお母さま、たみ子さん。「なぜかまったく知らない人もいっしょに映っているんですよ(笑)」
「『大学を蹴って選んだ道だから、絶対日本代表になる覚悟で、死ぬつもりでがんばれ!』と言っていました」って。
そうしたら、息子を思っての愛情ある説得が通じたのか、意外にも大学の教授と監督も感動されたようで涙ぐまれました。ぎりぎりになってやっとOKのサインがもらえたんです。
そのときの父との約束が、後々、本当に実現することになるんだから、驚きですよね(笑)。しかも、日本が初めてワールドカップに出られた記念すべき大会ですものね。神様に感謝です。
▲試合になると誰も追いつけないほど足が速かった。ドリブルも得意でひとりで一試合に10点あげたことも。右端が岡野選手
実は、息子が小学生の頃から、主人は「雅行は他の子とドリブルの仕方などがちょっと違う」と言っていたんです。
「見る人が見ればプロになれるかもしれないよ」って。
その夢があったから、私たちは息子の夢にかけて、前に進めたのかもしれません。
スポーツでも何でも、大切なのは、“ひとつこれ!”というものを見出して伸ばしてあげること。 好きじゃなければ続かないので、何が向いているのか、いくつかやらせて見つけてやるのも、親の責任かなと思います。
▲「応援にいくと熱くなってつい声を出してしまう」と微笑むたみ子さん。岡野選手の愛犬 “ゴマちゃん”を抱いて
中学、高校になっても、応援にはほとんどの試合に出掛けて行きました。家での会話も、その日行われた試合のプレーについての話題が多かったです。本人も言われたその時は怒っていても、頭のどこかに残っているらしく、次の試合では修正しているんです。
私は、親が子どもと意見も言い合えないようであれば、ひとつのことを貫いていけないと思いますね。
ひとつのことをずっと続けて行くことは大変なことです。わがやではプロになってからも、プレーやプレースタイルなど、一家で討論になったりしていました。今現在はさすがにないですが(苦笑)。
彼のおかげで、私達は現在も試合の応援に行けるし、共通の話題、喜び、楽しみなどを話し合えるし、いくつになっても子どもと関わっていられる幸せがあります。大変なりにも、サッカーで繋がっていてよかったなと、つくづく思いますね。
息子へは、サッカー選手になってくれて、ありがとうと言いたいです。
岡野雅行さん