
“昭和の三筆”の一人で文化功労者の偉大な書家、手島右卿(てしまゆうけい)氏を父に持つ、岡野たみ子さん。ご自身も書家として活動しつつ、会社員のご主人とともに幼少期から、岡野選手のサッカー人生を全面的にサポートしてきました。スポーツを通じて育んだ熱い絆、親ならではの視点と深い愛情で関わり続けた子育ての日々をお話していただきました。
2008/04/18
▲母といいしょにほぼ毎日のように鎌倉の実家に通うほか、書の展覧会やパーティにも連れ歩いていた頃
雅行は予定日より少し遅れて3,850gで生まれました。小さい頃は私が書家である父の手伝いのために、いつも鎌倉の実家まで連れていっていたんです。父は世界に通じる“書”を目指し、尽力していた芸術家。私の父にとって雅行は初孫であり、雅行も父親より、おじいちゃんといっしょにいる時間が長かったせいか、二人はとてもよく似ていると、みなさんから言われました。
私の母は厳格で、特に食べる物には強いこだわりを持っていた人。当時、実家でお昼も夕飯も食べて帰っていたのですが、雅行が赤ちゃんの頃に作ってくれた重湯は無農薬の玄米でしたし、野菜も幼い時かられんこん、ごぼうなどの根菜をよく食べたおかげか、高校生のとき、整体の先生から「すばらしい骨!」と褒められるほどでした。
子育てについては「3歳までにきっちりしつけして食べ物にも気を配っておけば後が楽よ」と母が言うもので、わりと厳しくしましたね。甘いものはほとんどあげず、大人と同じものを好き嫌いなく食べさせました。わがやでは調味料も無添加にこだわっていて、その辺はちょっと自慢できるかな、と思います。
▲約3800グラムの大きな赤ちゃん。 難産の末産まれたが、たいした病気もなくすくすく育つ
お産のときは高血圧でむくみも出て、へその緒も絡まっていたらしく、お医者さんは主人や母にだけ「お子さんはどうなるかわからないから覚悟してください」と言っていたそうです。でも、生まれてからは順調に育ち、体重が増え過ぎて、早めに離乳食を始めたくらいでした。
出産後すぐに母がくれたのが『スポック博士の育児書』という分厚い本。
読んでみたら“子どもは絶対に泣かさず叱らず、ほめながら育てよう”といった内容が書かれてありました。「これを読んで育てなさい」と言われたんですが、そこのところは反発してね。
私としては、悪いことをした子に「ダメ!」と叱るのは当たり前のことであって、その中でしっかりと喜怒哀楽を出せる子に育てたい、という思いがずっとあったんです。
▲悪いことはしっかり叱って、日常の中で人間らしい喜怒哀楽の感情を育てた
だから母からの忠告は無視しちゃいました(苦笑)。
幼稚園も、小人数のおぼっちゃま系のところではなく、大人数のおおらかなところに入れて“野生児”にしましたね(笑)。雅行は外遊びが大好きで、いつも元気に走り回っていましたよ。
岡野雅行さん